2021.02.05

【はばたく】日本のエースがはばたける理由 木村敬一

【はばたく】2021滋賀アスリートたちの〝現在地〟

約1年延期となった東京2020オリンピック・パラリンピック大会をはじめ、再びスポーツの機運が高まりそうな2021年。
滋賀アスリートたちはどんな想いでこのメモリアルイヤーを迎えるのだろうか。失望、挫折、再起、希望…。さまざまな感情と向き合ってきたアスリートたちの〝現在地〞、そして展望を追う。

原点は中学2年のある練習会

 2歳で視力を失ってからも、走ったり、跳ねたり、とにかく動き回る子どもだった。だが、目が見えないがゆえに、転んだり、ぶっかったり、ケガが絶えなかったという。どうすればケガをせず、思い切り身体を動かせるのだろうか。この時、母親がふと思いついたのが水泳という選択肢だった。

 木村敬一、10歳。のちにパラリンピックの競泳でメダル6つを獲得する日本のエースは、彦根のスイミングスクールからそのキャリアをスタートさせた。
 ただ、最初から天賦の才を備えた神童ではなかった。「スクールに通う前にもプールに入ったことはありましたけど(水をつかむ感覚が優れていたとか)特別なものはかったと思います。(一般的な人と同じく)今、僕は水の中にいるんだなぁってくらいでした(笑)」

 頭角を現したのは、小学校(滋賀県立盲学校)を卒業し、筑波大学附属視覚特別支援学校へ進学してからだった。パラリンピックを明確に意識し始めたのもこの頃。中学2年生の時に参加した、ある練習会がきっかけだった。

「静岡県の浜松で(2004年の)アテネ・パラリンピックに出場する日本代表選手たちが合宿を行っていました。そこに、自分も参加させてもらいました。一緒に泳いでいて、まず速度が全く違うことに驚きました。僕がプールを1往復する間に彼らは2往復している。それくらいの差があって、これは段違いだなと。この時、パラリンピックという大会を意識するようになりました。僕の原点ですね」

 その後、木村はパラリンピック出場をめざして努力し、高校時代に北京、日本大学の時にロンドン、東京ガス入社後にリオと3大会連続で出場を果たしている。獲得したダルは計6つ。今年の東京パラリンピックでは悲願の金メダルを狙っている。

 今回のロングインタビューでは、パラリンピックを中心にアメリカでの武者修行や滋賀への思いなどを聞いた。一つ一つ、丁寧に応える姿に彼の人間性が見えてきた。

印象深い、リオの銅メダル

【Q】 パンパシフィック世界パラなどいろいろな国際大会に出場されていますが、木村選手にとってパラリンピックは他の大会とは別格なのでしょうか?

 基本的に他の大会はパラリンピックに向けたステップでしかないと思っています。僕に限らず、どの選手もパラリンピックを最終目標に戦っていますし、力の入れ具合も他の大会とは全く違います。

大会の規模も大きいですし、水泳以外の競技者も世界中から集ってきます。雰囲気も異なりますし、お客さんたちの熱量も違います。あらゆる面で、パラリンピックは〝ずば抜けて〞別格の大会として感じています。

【Q】パラリンピックでは計6つのメダルを獲られていますが、最も印象深いメダルはどれでしょうか?

 印象に残っているという点では、初めて取ったロンドン2012大会の銀メダル(100m平泳ぎ)です。でも、分岐点という意味では、リオ2016大会の100m自由形で獲った銅メダルです。

前日に最も得意な100mバタフライがあって、本当は優勝できるはずだったのに銀メダルで終わってしまった。すごくショックで、哀しくて、もう嫌やなぁと思って失意の中、翌日の100m自由形を迎えていました。

そんな状況で銅メダルを取れたことは、気持ちを立て直せたからだと評価しています。この100m自由形は最もメダルに遠い種目でした。その状況を考えると、オレは頑張ったぞと自分で褒めることができました。

【Q】失意の銀メダルからわずか1日で、どのように気持ちを切り替えたのでしょうか?
 100m自由形の予選が午前中にあったんですけど、その時はまだ気持ちが立て直せていませんでした。タイムも遅く、8位までが決勝に残れる中で僕は7位。

それを見て、当時のコーチから〝無理して泳がなくていいぞ、レースに出なくてもいいぞ〞って言われたんです。このままレースに出てもメダルは取れないだろうし、〝取れないレースに出ても、お前の経歴に傷がつくだけだぞ〞とも言われました。

あぁそうか、泳がない選択もありなのかとその瞬間は思ました。でも、今までの競技人生で〝泳がない〞という選択肢を自分は持ったことがなかった。どんな形であれ、4年に一度しかないパラリンピックの決勝に進んできているわけだから、自分からそれを捨てるのは嫌だなと思いました。だったら、ちゃんと泳がないと…。そんな感じで決勝を泳ぎました。

【Q】その経験から、競技者として何か意識は変わりましたか?
 そうですね。あの頃は、いろんな種目に出させてもらって、決勝に行くことは当たり前になっていたと思います。その決勝でどう戦うかということに意識が向いていました。

もちろん、それは間違ってはいないです。でも決勝は誰もが行ける場所ではないですし、簡単に経験できる舞台でもない。あの銅メダルを経験したことで、一瞬一瞬を大事にせなあかんなぁと思うようになりました。

アメリカで得た自己肯定感

【Q】リオ2016大会から2年後の2018年に、練習拠点をアメリカへ移されました。その理由と狙いはなんだったのでしょうか?
 東京パラリンピックで金メダルをめざす上で、気持ちをリフレッシュさせる必要があると感じていました。リオ大会では、すごく頑張ったつもりだったんですけど、最終的に金メダルには届かなかった。あれよりも、もっともっと頑張らないといけないのかと思うと、ちょっと嫌だなぁと…。

このまま同じ環境ではもう続けられない。でも何かを変えれば、気持ちをゼロに戻して頑張れるんじゃないかと思った。もともと海外には興味があったので、友人でありライバルでもある選手を頼って、思い切って単身でアメリカへ渡りました。

【Q】アメリカでの武者修行で身についたことはなんでしょうか?
 オレ、けっこう頑張っているなと思えるようになったことですね(笑)。リオ2016大会を終えた後も頑張ったなとは思いましたけど、また別の次元というか。

アメリカでは言葉がわからなかったり、近くに友だちがいなかったりする中で自分は生きている。考えてみたらすごいことやっているなって思えるようになりました。自己肯定感というか、自分で自分を褒められるようになったら、人生がいつの間にか楽しくなっていました。

【Q】自己肯定感は今まで持ったことがなかったのでしょうか?
 どちらかというと、自分に自信がなかったですね。

【Q】意外です。これだけの結果を残してきている選手なのに…。
 意外ですか? 何やろうなぁ、アメリカに行く前は〝まぁ水泳は速く泳げるけど…〞って感じですね(笑)。日本では周りのサポートが手厚く、自分で生きている感覚は薄かったのかもしれません。

【Q】自己肯定感が芽生えたことで、競技にもいい影響は出ましたか?
 少々調子が悪い時でも、今までやってきたことに自信を持てたり、いい影響はありますね。明らかな根拠があるわけではないのに、なんか行けるような気がするとか。根拠のない自信がついて、スタート台に上がった時に万全の心の状態に持っていけるようになったような気がします。

【Q】根拠のない自信ですか…。
 まぁ、そもそも自信なんて根拠がないものですけどね。たくさん練習をしてきたことが根拠になるかと言われれば、そうではない気がします。だって、自分より練習してきた選手はほかにもいるでしょうから。もともと自信に根拠を探す必要はないんだと思います。そういう裏付けみたいなものがなくても自信があるという状態は、すごくいいことだなと思いますね。

盛り上がりの輪に入りたい

【Q】少し昔ですが、2013年に東京2020大会の開催が決まった時はどんな気持ちでしたか?

 あまり記憶にないですけど、うれしかったとは思います。日本でのトレーニング環境がよくなったり、パラスポーツへの関心が高まったり、そういうものを期待したわけではないですが、いろいろな面でよかったと思います。

個人的には、自分が泳ぐところを多くの日本人に見てもらえることがうれしかったと思います。ただ、2013年に開催が決まった時、僕は7年後の自分を想像できなかったですし、当時はリオ2016大会に向かってトレーニングしているところだったので…。他人事とまではいかないですけど〝まぁ、決まって良かったんじゃない〞って感じだったと思います(笑)。

【Q】リオ2016大会が終わってからは、東京2020大会への思いはだんだん強くなってきたと思いますが、現状はどんな想いでしょうか?

 東京に決まっていて良かったなと改めて思っています。新型コロナウイルスの影響で世界中が元気を失っている中、東京2020大会を無事に開催することができれば、人類が一つのトンネルを抜けて立ち直るための一歩を踏み出せた証しだと思います。それを自分たちの国で発信できる。

これは、世界に誇れることだと思いますし、その国民でいたいなとも思います。無観客開催も含め、どういう形になるかはわかりませんが、開催されるなら僕ら選手たちはベストなパフォーマンスを発揮するだけです。アメリカでは外国の人たちが日本をすごく評価をしてくれていると感じました。多くの人が日本に行きたがっていました。僕は選手であり、彼らを迎えるホスト国の一人でもあるので、みんながいい大会だったなと思えるようにしたいですね。

【Q】ところで、東京2020大会1年延期が発表された時、その決断をどう受け止めましたか?
 ん〜、まぁそうやろな、ですかね(笑)。いろんな予選会が中止になっていて、現実的にできる気がしていなかったので。どちらかというと(延期などの)発表待ちの状態でしたから。

おそらく無いであろうものに対して、向かっていけるほど僕も元気ではないので、早めに決断してほしいって気持ちでした。早く決まれば、逆算してトレーニングを組み直したり、新しいチャレンジもできますからね。

【Q】改めて、東京2020大会の目標を聞かせていただけますか?
 まだ取れていない金メダルを取りたいと思っています。そして日本人の一人としては、東京2020大会の盛り上がりの輪に加わっていたいと思います。

 木村敬一、30歳。滋賀で水泳を始めた日本のエースは、今年、その輝かしいキャリアに〝金メダル〞という勲章を加えるつもりだ。そして彼がはばたける背景には、ふるさと滋賀の存在もあるという。インタビューの最後に滋賀への思いを聞くと「大事な場所」という答えが返ってきた。

「東京やアメリカなど、僕には帰る場所がいくつかあります。でも、最終的に戻る場所は滋賀だと思います。親や兄弟も暮らしていますからね。たまたま今は水泳がうまくいって、生活が成り立っていますけれど、どうしても立ち行かなくなった時に助けてくれるのは滋賀だと思っています。いろんなところで暮らしてきましたが、自分にとってそういう場所は滋賀だけ。そして戻る場所があるから、僕ははばたけるのだと思います」

木村敬一

東京ガス

きむら・けいいち。1990年9月11日生まれ、栗東市出身。東京ガス所属。先天性疾患で2歳の頃に視力を失う(全盲)。10歳から水泳を始めた。滋賀県立盲学校(小学校)卒業後に筑波大学附属視覚特別支援学校へ進学。水泳部で徐々に頭角を現し、高等部在籍時の2008年に北京パラリンピックに出場。2009年4月に日本大学文理学部へ進学し、2012年のロンドンパラリンピックでは日本選手団の旗手を務め、2つのメダルを獲得。大学卒業後は東京ガスに入社。2016年のリオ・パラリンピックでは銀メダル2つ、銅メダル2つを獲得した。171㎝、66㎏。

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