2020.07.31

京都との激闘史は喜怒哀楽 #8

一滴のしずくはやがて川になり、大きなうみを形成する。滋賀レイクスターズもそうやって、故郷やバスケットを愛する者たちによって形を成してきた。この連載では、そんなバスケットマン(B-MEN)のサイドストーリー(B面)を軸に、レイクスの軌跡をひもといていく。

(構成・文:白井邦彦)

【B-MEN/B面】
第八回:有明への道
京都ハンナリーズとの激闘史

レギュラーシーズンは18勝18敗

bjリーグ時代の滋賀レイクスターズを語る上で、京都ハンナリーズの存在を無視することはできない。京都がbjリーグに参入した2009-2010シーズンから始まる激闘史はまさに喜怒哀楽の連続だった。
レギュラーシーズン(計7シーズン)の通算戦績は18勝18敗。最初の2009-2010シーズンは6勝2敗、翌シーズンも4勝2敗とレイクスがbjリーグの先輩として意地を見せた。そして2011-2012シーズンは2勝2敗、続く翌シーズンは4勝2敗。ここまでの4シーズンはレイクスが京都を大きく突き放していた
だが、5シーズン目からは立場が逆転する。2013-2014シーズンと2014-2015シーズンはともに1勝3敗で負けが先行。bjリーグ最後の2015-2016シーズンは京都に0勝4敗。結果的に18勝18敗の勝率5割だが、最後の3シーズンに限ると、京都がレイクスの上を走っていたことになる。
プレイオフでは計5シーズンで死闘を演じ、通算戦績は5勝8敗でレイクスが負け越し。レギュラーシーズンで1勝も挙げられなかった2015-2016シーズンは、最終的にプレイオフ・カンファレンスセミファイナルでも2敗を喫している。

ちなみに京都のbjリーグ参入初戦の相手はレイクスで、その開幕シリーズは1勝1敗。また、レイクスのbjリーグ最後の試合は先述した2015-2016シーズンのプレイオフ・カンファレンスセミファイナルで相手が京都。単純に対戦成績だけを振り返っても、因縁深い両チームと言えそうだ。

4季連続、プレイオフで激突

レイクスと京都がプレイオフで初めて対戦したのは2010-2011シーズンだった。根間洋一HC代行がレイクスを率い、第1戦は80-88で敗れたものの、第2戦を88-60でリベンジし、その勢いのまま最終決定戦(第3戦)を20-13で制してカンファレンス・セミファイナルへと駒を進めている。
このシリーズはレイクスにとって初のプレイオフホーム開催。2日目の5月1日には当時の最多動員記録となる3046人が滋賀県立体育館(現ウカルちゃんアリーナ)に訪れた。最終決定戦では藤原隆充が勝利を手繰り寄せるバスケットカウントを決め、体育館には割れんばかりの歓声が起こった。これが両チームのプレイオフ激闘史の始まりだ

次の対戦は2012-2013シーズン。アラン・ウェストオーバーHC体制2シーズン目。レギュラーシーズンでは4勝2敗でレイクスが勝ち越していたが、キャプテン小川伸也の負傷もあってプレイオフの頃には勢いを失っていた。結果、ファーストラウンドで京都に2連敗を喫して終了となった。

そして翌2013-2014シーズンから3シーズンは、有明ファイナルズへの切符をかけた直接対決となった。特に、2013-2014シーズンと2014-2015シーズンの激闘は、レイクスのクラブ史に残るドラマチックなものだった。
2013-2014シーズンはクリス・ベッチャーHCがレイクスを率いた。レギュラーシーズンを過去最高の3位で終え、ホーム開催のプレイオフ・ファーストラウンドで大阪エヴェッサに逆転勝利。大阪との第2戦では横江豊がラストプレーで逆転ショットを決めるなど神がかり的な勝ち方で勢いに乗っていた。

 

 

だが、その横江が大事な京都戦を前に肉離れというアクシデントに。負傷のキャプテン小川の代わりにチームをけん引し続けてきた横江には、悔しい思い出となった。
「レギュラーシーズンで週間MVPをもらい、プレイオフ大阪戦では逆転ショット。自分でも調子がいいと感じていた時に肉離れを起こした。なんで今なんや。すごく情けなかったし、チームにも迷惑をかけてしまった」
大阪戦の勝利で勢いが残っていたレイクスは、京都との初戦を87-82で制した。だが、あと一つで有明進出という状況が重圧として選手にのしかかり、第2戦は73-97で完敗してしまう。これで1勝1敗。運命の最終決定戦も思うように体が動かず15-25で敗れた。つかみかけていた有明行きの切符は、指の間からするりと落ちるように直前で消滅してしまった。

 

ますます因縁が深まる中で迎えた翌2014-2015シーズン。悲願の有明行きを託されたのは、まだ30台と若い遠山向人HCだった。琉球ゴールデンキングスHC時代に当時のリーグ最高勝率42勝10敗という金字塔を打ち立てた指揮官は、「有明」ではなく「優勝」に目標を定めた。そのプロセスの中で大事にしたのが忍耐だった。
「選手たちには、プロアスリートとして極限まで自分を追い込み、勝つか負けるかの紙一重まで一生懸命プレイすることを求めていきたい。そのためなら選手に嫌われてもいいですし、その先にしか優勝はあり得ないと思っています」

その言葉通り、遠山HCはチームを厳しく鍛え上げた。34勝18敗の過去最多勝利でレギュラーシーズンを終え、プレイオフ・ファーストラウンドでは大阪を2試合連続で60点台に抑えて連勝。その勢いのまま、京都とのカンファレンス・セミファイナル第1戦を80-74で先勝した。だが、翌日の第2戦は京都に意地を見せられて73-81の敗戦。奇しくも昨シーズンとほぼ同じ展開で、運命の最終決戦を迎えることになる。

この最終決定戦で活躍したのが、横江だった。昨シーズンの肉離れを挽回するように、大事な場面でショットを沈めた。そしてレイクスは25-20で京都に競り勝った。勝利を決めた瞬間、常に冷静を心がけていた横江が子どものように喜びを爆発させると、滋賀出身の岡田優と井上裕介もコートで飛び跳ねた。京都のデイビット・パルマーを抑えた加納督大は、ブザーを聞いた後にもう一度スコアを確認し、みんなの輪に入っていった。

 

スポーツは筋書きのないドラマだと表現されるが、2013-2014シーズンの逆転負けから有明進出までの道のりは、まるで名脚本家が描いたようなドラマのようだった。

滋賀レイクスターズの坂井信介会長CEOは当時をこう述懐する。

前年は第3戦(最終決定戦)で敗退し、ロッカールームでは引退を決めていた仲摩純平が放心状態になっていました。この試合が現役最後になったディオニシオ・ゴメスの男泣きを見て私も悔し涙にくれました。対照的に翌年のロッカールームはみんなが笑顔でした。その中で、負ければこの日が現役最終戦になるところだった小川伸也がプレッシャーから解放されて感涙にむせんでいたのを覚えています。悲願の有明行きを確信したのは、京都の大黒柱デビッド・パルマ—がタイムアウトを要求した時でした。第3戦ではプレイヤーからのタイムアウト請求が認められておらず、相手がかなり動揺しているのがわかりました。その後に、横江豊が落ち着いてフリースローを2本沈めた。すごく印象的なシーンでした。あの試合には800名近くのレイクスブースターが駆けつけ、歓喜の瞬間には多くの人が泣いていました。私にとってレイクスでの歴代最高の瞬間は2つあります。棒高跳の我孫子智美(レイクス所属)が2012年に大阪の長居スタジアムで日本新記録を打ち立て、ロンドン五輪出場を実質的に決めたあの瞬間。そして、この有明を決めた京都ハンナリーズ戦です」

京都の壁をぶち壊して初進出した有明ファイナルズでは、さらに感動的なシーンが待っていた。それは別の回で紹介したいと思う。

 

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