2020.06.12
社員はたった2人 「退路を断った」坂井信介 #1
一滴のしずくはやがて川になり、大きなうみを形成する。滋賀レイクスターズもそうやって、故郷やバスケットを愛する者たちによって形を成してきた。この連載では、そんなバスケットマン(B-MEN)のサイドストーリー(B面)を軸に、レイクスの軌跡をひもといていく。
(構成・文:白井邦彦)
【B-MEN/B面】
第一回:坂井信介
滋賀レイクスターズ会長
退路を断つ
2007年8月8日。株式会社 滋賀レイクスターズ(レイクス)は設立された。社員はたった2人。今のレイクスしか知らない人には想像しがたい小所帯ではじまった。旗手は、のちに会長CEOになる坂井信介だった。当時まだ30代。会社設立の4ヶ月前には、自転車を走らせ、訪問先の企業で熱っぽくレイクスの未来を語っていた。
「あの頃は、J1、J2を含めJクラブが各地域に誕生していました。プロリーグに参加する地域クラブを創設し、地域対抗での順位争いや、定期興行ゲームで地域を活性化させる動きが全国的に盛んだったと思います。滋賀にも水面下ではそういう機運があって、レイクスの理念に多くの方々が耳を傾け、賛同してくださいました」
この頃、チーム名はまだ決まっていなかった。bjリーグの加盟もまだ。それにも関わらず、50社が協賛してくれた。
「最初期の50社は、手弁当で稼働していた創設運動そのものに対して共鳴して活動費をいただいた形です。純粋な応援が短期間で広がるのを実感して自信を深めていくことができました。13年後の今も大部分の企業が協賛継続していただいており感謝しています」
2007年4月から、bj参入活動と同時にチーム名公募キャンペーンも始めた。応募612件。その中から選考委員会(※)によって、滋賀レイクスターズが選ばれた。7月にはbjリーグ加盟申請を提出。リーグ加盟の承認を待たずに8月8日に株式会社 滋賀レイクスターズを立ち上げた。
「リーグ加盟が承認されてからでもよかったと思います。でも、先に会社を設立しました。退路を断ったわけです。絶対に成功させる。その気持ちをbjリーグと滋賀のみなさんに伝えたかったからです」
8月20日、レイクスはbjリーグ加盟を許された。受話器を握る坂井の手は少し震えていた。
滋賀に誇りを
長浜市で生まれ、高校まで野球をやっていた坂井は、バスケットには縁もゆかりもなかった。bjリーグの存在を知ったのは、レイクス立ち上げの半年前だった。
「bj参入活動を始める前、JBLレラカムイ北海道(現レバンガ北海道)のインターンに参加しました。恥ずかしながら、この時に初めてbjリーグの存在を知りました」
坂井は、1995年から2005年まで仕事で香港・上海に駐在していた。その影響もあって、2005年に始まったbjリーグを知らなかった。帰国後に描いていた構想も、ヨーロッパ的な総合型スポーツクラブだったという。
「香港には英国統治時の影響で外国人居住者が多くいました。各地域には彼らが通う総合型クラブがあり、会員がいろんなスポーツを楽しんでいました。また、訪れた欧州では、クラブの頂点にサッカーやバスケットのプロチームがありました。日本のように部活はなく、スポーツは地域クラブで行うものでした。それでクラブ運営が成立している。滋賀にもこういうスポーツ文化が創れたらおもしろいだろうなと思いました」
この経験は今、アスリート雇用やスクール事業、選手や団体支援を行うレイクス・スポーツファンド(公益財団法人 滋賀レイクスターズ)として、段階的なアプローチが始まっている。そちらの活動はまた別の機会に委ねるが、バスケットもそれ以外も、レイクスの歩みをさかのぼると、一つの共通した想いにたどりつく。坂井がよく口にする言葉…。
「地域アイデンティティを育む」
今も根底に流れる、滋賀レイクスターズのクラブマインドである。
※◆選考委員は以下のメンバー。役職などは当時のもの。敬称略。
【メディア関係】
・西村隆(BBCびわ湖放送 代表取締役社長)
・櫻井顕一 (エフエム滋賀 代表取締役社長)
・三原渡(NHK大津放送局 局長/元同局NBA・MLB実況担当アナウンサー)
・その他、若干名
【大学】
・小椋博(龍谷大学 社会学部教授、専門分野:スポーツ社会学、元大阪五輪招致委員)
・種子田穣(立命館大学 経営学部教授/学生部長、専門分野:スポーツ経営学)
・松岡宏高(びわこ成蹊スポーツ大学 准教授、専門分野:スポーツマネジメント)
【民間】
・中井保(京阪電車株式会社 執行役員/琵琶湖汽船株式会社 代表取締役社長)
・蔭山孝夫(滋賀県中小企業家同友会代表理事/滋賀建機株式会社 代表取締役会長)
・西居基晴(大津商工会議所青年部会長/株式会社松喜屋 代表取締役)
【滋賀bj会】
・坂井信介/江藤真弘