2020.06.26
「滋賀レイクスターズ初代キャプテン」 藤原隆充 #3
一滴のしずくはやがて川になり、大きなうみを形成する。滋賀レイクスターズもそうやって、故郷やバスケットを愛する者たちによって形を成してきた。この連載では、そんなバスケットマン(B-MEN)のサイドストーリー(B面)を軸に、レイクスの軌跡をひもといていく。
(構成・文:白井邦彦)
【B-MEN/B面】
第三回:藤原隆充
滋賀レイクスターズ初代キャプテン
妻のひと言
2019年5月、レイクス初代キャプテン藤原隆充が現役を引退した。プロ生活18年のうち、レイクス在籍は5年。滋賀のホームコートを熱くさせた闘将は「チームを作る機会にゼロから関われることはそうない。自分にできることは何でもやろう」と決めていた。
ワラの愛称で親しまれた藤原は、新規参入チームの戦力確保のために設けられたエクスパンションドラフトでレイクスにやってきた。当時、新潟アルビレックスBBでバリバリ活躍していた看板選手。本人も「正直、(新潟から)プロテクトされると思っていた」と話す。
「前シーズンはケガもなく過ごせ、試合にも出場していた。優勝はできなかったけど、個人的には手応えもあった。だから、プロテクトされていないのを知った日は、本当に悔しかった。同じチームでずっとプレーしたい気持ちも強かったので、それができない寂しさも沸きましたね」
大学卒業後、2001年に藤原は新潟に入った。当時はほぼ無名に近かったが、そこから這い上がった。bjドリームという言葉が似合う華やかなバスケット人生は、新潟に作ってもらったようなものだった。だから、恩を返したい。その想いで、疲れた体に鞭打ってメディア出演やイベントにも二つ返事でOKしてきた。それなのに…。気持ちの整理がつかない時、妻の一言がきっかけで気持ちを切り替えられたという。
「かみさん(妻)はそれまで、バスケットに関して口を挟んでこなかった。でも、新潟から見放されたあの日、かみさんは“私は悔しい”と言ったんです。あなたは自分の時間を犠牲にしてチームのために動いてきたのに…って。自分を理解してくれている人がそばにいる。これで充分だなと。滋賀でも、自分にできることは何でもやっていこうと思いました」
レイクスに来た藤原が、コート外のイベントやメディアに率先して出演した裏には、あの日の、妻のひと言があった。
ラスト2分
藤原がレイクスに来た当時、ポイントガード(PG)は3人体制だった。大阪エヴェッサでbjリーグ3連覇に貢献した石橋晴行、売り出し中だった若武者・小川伸也、そして藤原。ベテラン、中堅、若手とバランスの取れた布陣の中で、エースPGは藤原だった。キャプテンには選手たちの投票で選出され、名実ともにレイクスの“顔”だった。そんな彼がこだわったのは「(試合終了)ラスト2分間をコートに立っていること」だった。
「スターター(スタメン)かどうかはあまり気にしていません。でも、最後の2分間は絶対にコートに立っていたい。勝敗を分ける大事な時間帯ですし、その時間にコートを任されるってことはヘッドコーチの信頼を得ている証拠でもありますから。ラスト2分は、バシさん(石橋)でも、シンヤ(小川)にも譲る気はないですね」
キャプテンとしての覚悟であり、エースPGとしてのプライドが、この2分には凝縮されていた。あの時のラスト2分も、藤原はコートに立っていた。そう、2010年5月に初めてレイクスがプレイオフの舞台を経験した大阪との戦いである。つづく(文中敬称略)