2019.07.26
[男子ハンマー投げ]奥村造園 奥村匡由
実家の状況を考えて帰郷を決意。湖国から“アジア”の表彰台を目指す。
甲南高校1年の夏、奥村匡由はサッカー部を辞め「フラフラしていた」 と言う。 それを見かねた先生が奥村に声をかけた。
「野球・柔道・陸上の三択を提示されました。 でも、部活に興味がなくて返事をしなかったら、約2週間後に先生に呼び止められました。 そして”明日の放課後グラウンドに集合”と告げられました」
翌日、グラウンドに行くと、そこには競技用ハンマーが置かれていた。
「その日から僕のハンマー投げ人生が始まりました」
当時、陸上部員は奥村1人。 先生とのマンツーマンによる厳しい練習が続いたが、記録が出てくるにつれ「楽しくなりました。 高校3年時には甲南高校として24年ぶりのインターハイ出場を決められた。 おかげで大学にも進学し、大学院も修了することができました。 半信半疑で続けてきたハンマー投げですが、今は人生にかけがえのないものになりました」 と振り返る。
そんな数奇な競技人生の中で、奥村には忘れられない大会がある。高校2年の県春季総体での敗戦だ。
「小学生の頃から水泳、柔道、テニス、サッカーなどいろいろな競技を経験してきました。でも、試合に負けて泣いたのは、あの時が初めて。半強制的に始めたハンマー投げでしたが、いつの間にか夢中になっていたわけです」
もう一つの大きな転機は、流通経済大学2年のタイ合宿だと言う。
「今までは横に振り回す意識でしたが、この合宿で重心移動を意識し、自らの背中方向へ体重をかけていく動きへとフォームを変えました」。 その結果、3年の春の「第8回大川杯ハンマー投競技会」(埼玉)で60mの壁を突破。日本トップアスリートに仲間入りした。
大学院卒業後も練習拠点の大学で競技を続けられるように、茨城の企業への就職で話が進んでいた。 だが、正月に実家に帰ると祖父の体調が想像以上に優れなかった。
「父も奥村造園に勤めていますが、僕の両親は難聴という障がいを抱えています。 その状況から、僕が滋賀に戻り、家業を手伝いながら競技に取り組む方が良いのではないかと思いました」
今年5月11日。大阪で行われた関西実業団陸上競技選手権大会に奥村の姿があった。 胸には 「奥村造園」 の文字。 修士論文の関係で、しばらく練習ができなかった中で優勝し、早くも 「奥村造園」 の名を日本の陸上競技界に刻んだ。
将来の目標は日本選手権で優勝し、アジア選手権とアジア大会でのメダルを獲得すること。 「奥村造園」 の名を、いつかアジアに広めるつもりだ。
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奥村 匡由
奥村造園
Profile/おくむら・まさよし1994年年9月8日生まれ、甲賀市出身。綾野小学校、水口中学校、甲南高校、流通経済大学および大学院を経て奥村造園へ。高校3年の県春季高校総体で優勝し、近畿インターハイ6位。全国インターハイは16位。大学では4年生時に全日本インカレ4位に。大学院2年時には日本選手権4位、個人選手権2位、全日本インカレ2位に輝いた。自己ベストは、2018年7月7日の滋賀県陸上競技選手権大会でマークした67m84cm。189㎝、117㎏。