2017.01.28
木村成那 [大阪経済大学] / 粟屋晋太郎 [神戸大学] / ショートトラック
「友よ。」 学生最後の冬季国体。想いをぶつける。
腰の故障で歯車が狂う
小学2年の時、滋賀スピードクラブでスケートを始めた木村成那は、 順調な競技人生を歩んでいた。高校2年で挑んだ国体では7位入賞を果たし、高校卒業後は強豪・大阪経済大学へ。大学1回生のインカレでは、リレーで4位にも入っている。身長183cm、恵まれた体を生かした大きなスケーティングは、将来を有望視されていた。だが、大学2回生のオフシーズンに悲劇は起こった。椎間板ヘルニアという厄介な爆弾を腰に抱え込んでしまうことになる。「ハードな練習が続いていて、これ以上やるとヤバいかなという感覚があった。だから、あまり負担にならない練習だけ参加していた。でも、大学の監督から練習に来るなら全てのメニューに参加しろと言われて、無理して全ての練習をこなした。練習後、立てないくらい腰が痛くなっていました」医師からはリハビリに1年ほどかかると言われた。手術しても完治が約束されたわけではない。「仮に一線に戻れても、4回生になっている。時間的に、それではチームの力になれないので部を離れることにしました」トップアスリートとしての歯車が狂った木村は、原点である滋賀で再起をはかることになった。
国体で再び競技人生が始まる
そんな木村と対照的なスケート人生を歩んできたのが、小学校時代の同級生でもある粟屋晋太郎だ。小学4年から滋賀スピードクラブでスケートを始めた粟屋だが、「勉強に専念するため」に中学・高校はスケートシューズを脱いでいた。だが、競技を離れてから5年ほどの歳月が流れた高校2年の時、〝滋賀の選手として国体に出ないか〞と声がかかった。 眠っていた競技者の血がたぎった粟屋は、再びリンクに立つようになり、国体予選では木村に負けず劣らずのスケーティングを披露。2人揃って本大会への出場枠を得た。「国体への誘いがなければ、競技として本格的にスケートを始めることはなかったかもしれません」そして神戸大学では体育会スケート部のスピード部門の主将を務めるなど多くのキャリアを積み上げ、上から2番目のカテゴリー「ダブルA(級)」に属する選手にまで成長した。「4月からの勤務先の配属にもよりますが、大学を卒業した後もスケートを続けたいですし、やっぱり一番上のトリプルA(級)も目指したい」。やや強引に引き戻された数奇なスケート人生を、粟屋は思い切り楽しむつもりかもしれない。
ライバルか、あるいは友か
滋賀に住む木村と兵庫にいる粟屋だが、今は月に2回ほど県立アイスアリーナで一緒に滑っている。1月30日・31日に長野で開催される冬季国体に向けての練習だ。昔から知った仲である2人に、お互いの特長を聞くと、興味深い答えが返ってきた。粟屋曰く「(木村は)相手を追い抜く時に足音がしない。一歩一歩の力が強いからだと思う」。木村曰く「(粟屋は)加速が鋭い。自分はスタートの加速があんまりなのでうらやましい(笑)」。歩んできた道が違えば、スタイルも真逆に近い2人。とはいえ、学生として挑む最後の国体での目標は意外にも同じだった。「昨年は個人としては予選落ち。まず予選を突破したい」予選、準々決勝、準決勝、そして決勝。2人が競い合うレースがあれば、友からライバルに変わるのだろうか。「まぁ、そうですね(笑)」。2人は曖昧な返事を残して練習場を後にした。
-
左 : 木村成那 [大阪経済大学] 右 : 粟屋晋太郎 [神戸大学]
左 : きむら・せな。1994 年4月28日生まれ、大津市出身。瀬 田東小学校2年時に滋賀スピード クラブで競技をはじめた。瀬田北 中学、瀬田工業高校を経て、強豪・ 大阪経済大学へ進学。大学2回生 時のオフに腰を痛め、今は椎間板 ヘルニアを抱えながら滋賀で競技 を続けている。高校2年時に国体7 位入賞も経験。 右 : あわや・しんたろう。 1994年7月8日生まれ、大津市出 身。瀬田東小学校4年時に滋賀ス ピードクラブで競技をはじめ、京 都教育大附属中学・高校時代はし ばらく競技から離れた。だが、高校 2年に滋賀の国体メンバーに勧誘 されたのを機に復帰。神戸大学で は体育会スケート部スピード部門 の主将も務めた。